世界を模索日記

もやもやしていることを聞き散らかす日記です。 気が向くと毎日更新。 そうかと思うと半年放置。 そんな感じでやってます。

スコットランドや英国のトランスジェンダー政策について

セントアンドリュース
 

千田さんの『社会学評論』に掲載された論文が大きな話題になっています。

私は推理小説の様にあちこちに伏線が張られている良質な推理小説を読む様な感覚で読むことができました。それの感想文は近々noteの方へ書こうと思いますが、今回はスコットランドの多様性のための政策について、前提知識がなくて論文を読み込むことができない人たちがたくさんいることをtwitterで見かけたので、前提知識としてスコットランド、英国のここ数年の状況について、私が知っていることのみですが整理してみようと思います。

まず、英国、スコットランドのトランスイシューで一番有名なのはJKRのこちらの発言です。
 

これ2019年ですね...
なんでこんな発言をJKRがわざわざ言わない行けなかったかというと
#IStandWithMayaというハッシュタグがつけられてます。
マヤ・フォーステイターさんが「生物学的性は変更することはできない」とツイートしたことで
職場のthink tank Center for Global Development (CGD)から、契約更新を拒否されました。
それに対してのツイートなのです。以下BBCの記事。

 
この時、
「生物学的性は変更することはできない」という言説自体が「トランス差別」と言われました。注目すべきは裁判官が「生物学的性は変更することができない」という言説が「民主主義社会で尊重されるには値しない」「トランスジェンダーの人たちへ苦痛を与える」などと言ってるわけです。
これをきっかけにJKRはトランスジェンダーアクティヴィストに目をつけられることになります。
女子トイレや女子の更衣室(試着室)、シャワー室が男女別に分かれているのも差別だと言われていたし、公的な機関や大手のデパートもその様に考えて、ジェンダーニュートラルな施設を増やしていました。

しかし、その流れが転機を迎えるのが、こちら





マヤさんと雇用先との裁判において、「生物学的性は変更することはできない」という言説は平等法Equalities Actに反していないとして、マヤさんの勝訴となりました。

んで、この平等法ですがこれです。
あらゆる人たちが差別を受けない様にという法律です。
で、この法律によって政府は差別に対して厳しく取り締まることが必要になったので、そのコンサルをStonewallに依頼しました。Stonewallのロビーイングは成功し、官公庁、企業、学校にコンサルとして入って、多様性項目、平等インデックスに沿ってランキングとして発表していました。今でもやっています。
要するに大学ランキングみたいにいろんなものを得点化して、競わせていたんですね。
その項目によって官公庁や企業は多様性を目指して設備やルールを変えていきました。それぞれの団体はStonewallにお金を払って多様性を得るためにStonewallの指示に従っています。
Stonewallが決めたルールを守ることが多様性とされたので、それに従わないことは多様性を尊重しない会社、企業、学校であるとされてしまうのです。

だからマヤさんやJKRはトランスフォビアだと罵られたわけです。
ジェンダークリティカルフェミニストはそれらに非常に危機感を持っていました。
GRA(Gender Recognition Act/性別認定法)の改正にStonewallが意欲的なのを知っていたからです。

Stonewallの主張はこちら

 

注目すべき点を引用します。

 
・Reforms to the Gender Recognition Act 2004, including the removal of the requirement to provide medical evidence and a process for people under 18 to access legal gender recognition.
(医学的エビデンスの提出義務の撤廃、18歳以下の法的性別認定を含む性別認定法の改正)
 
・A review of the Equality Act 2010 to include ‘gender identity’ rather than ‘gender reassignment’ as a protected characteristic and to remove exemptions, such as access to single-sex spaces.
(保護特性としてのジェンダー再認定ではなく、ジェンダーアイデンティティを含め、女性/男性専用スペースの様な例外を取り払う為に平等法を見直す)

・Improved reporting mechanisms for transphobic hate crimes and the extension of ‘aggravated offences’ to cover transphobic hate crimes.
( トランスフォビック・ヘイトクライムの報告メカニズムの改善と、トランスフォビック・ヘイトクライムを対象とした「加重犯罪」の拡張。)

カッコ内はgurikoの拙訳 

Stonewallは性別変更に医学的なエビデンス、診断書などは必要なく、ジェンダーアイデンティティを第一優先にすべきだし、それを持って平等法を見直したいし、さらにはトランスジェンダーの人へのヘイトを処罰対象にすべきだと主張しているわけです。
トランスジェンダーへのヘイトがあっては行けませんが、Stonewallの方針に従うと「生物学的な性は変更できない」という言説でさえ、「トランスフォビア」とされるわけですから、生物学や医学はどうしたらいいんでしょうかね。

また大きな問題は現行の平等法では女性/男性専用スペース、医師の診断が必要であるのにも関わらず、それらが多様性に反するものであるかの様にコンサルテーションをしていたことです。

さらに英国では2019年は労働党が大敗した年です。
原因は多くあるでしょうが、その一つは労働党とStonewallはかなり密着いていたため、トランスジェンダーMtFの人を女性として女性担当責任者にしたのです。長年労働党で活躍していた女性たちが離れていきました。それに伴い多くの女性票を失ったのです。



2019年の敗訴から控訴し、高裁でマヤさんが勝訴したのが2021年6月でした。時を同じくしてテレグラフがスコットランドで「母親」という言葉を削除したという記事を発表。多くの人たちが現状をおかしいと感じ始めました。



蜂の巣を突いた様な騒ぎになっていたので、千田さんが紹介した記事以外にもたくさんあるよ。




これも
これもこれも

これも



リンク切れと言われていたTIMEの記事はこちら
The term mother was removed from Scottish government maternity policies after they were lobbied by a leading LGBT+ charity, it has emerged.Stonewall urged ministers to remove gendered terms from policy documents and replace them with gender neutral equivalents.Documents released under freedom of

Stonewallに平等インデックスではgendered langageを避けないと得点をもらえないので、motherという言葉は使えません。
Stonewall曰く、motherはgenderd langageなんだそうです。
これはこのキャンペーンに参加している官公庁、企業、学校は全てそうなります。ランキングが大事なので。
千田さんの論文ではスコットランド政策のみが紹介されましたが、
これはStonewallのキャンペーンに参加している全ての団体で行われてもおかしくないことです。


BBCのNolanが調査をしました。
その詳細がPotcastで公開されています。transcriptはこちら


 

 要約でよくまとまっているのはこちら




これらの調査で分かったことは

  • Stonewallは法律に遵守したコンサルを行って来なかったこと。Stonewallに都合の良いものを多様性とし、企業に強いていた
  • スコットランド政府がStonewallに金を払ってロビー活動をさせた
  • 国や企業はStonewallの平等インデックスで高得点取る為に従っていた
  • Stonewallは男女の違いは生物学的な性の違いではなく、ジェンダーアイデンティティによる違いとした
  • 同性愛を同じ生物学的な性を持つ人たちの関係ではなく同じジェンダーアイデンティティ持つ人たちの関係によるとした
  • それらの考え方はNHSナショナルヘルスセンターにも影響を与えていた
  • 深刻な懸念を持つ内部告発をした医療者が脅迫キャンペーンを受けて凍結された
  • 公平なはずのBBC特派員がStonewallのために副業していたこと
  • gender identity ideologieに批判的な人たちに対する過激な活動家からの脅迫

Stonewallの代表がgender criticalであることは反ユダヤ主義と同じだと言っています。

 

現在は英国ではStonewallのおかしさが明らかになってきたので、BBC貴族院などでStonewallのキャンペーンやコンサルをやめることにしました。

キャンペーンに参加しているのはこちらで一覧になっているの参考にしてください。
 

上のサイトを見るとわかりますが、参加していたのに中止にしたところも出てきています。
スコットランドはそのままみたいなところが多そうですね。
大学も中止したところは少なめです。

さて、この様なStonewallの平等インデックスを遵守している様なところで、「母親」はgenderd langageであり、'parent who has given birth(産んだ人)'が多様性であり、ジェンダークリティカルであると、「反ユダヤ主義」と同じとされるのであれば「子宮を持つ人が妊娠する」というのが政治的に正しいとされるだろうし、「女性が妊娠する」というのは「差別と言われかねない」と懸念を持つことはおかしなことではないだろうと思います。


とりあえず、何だか訳のわからない反論にもならない様な屁理屈つけている人にはGoogle検索くらいちゃんとやれよなと言いたいなと思います。 
書くのだけで疲れたので、推敲とかしてません。
誤字脱字もデフォです。
時系列になっていないところもあるかもしれません。
大きな間違えがあったら、twitterで教えてください。
 

<記事>捻じ曲げられた「ジェンダー」 を読む

ちょっと前のWEB記事であったけど、twitterで流れてきたので、読んだ。
このテキストをしっかり読んでいこうと思う。(長いです)

元記事はこちら




 文章の構成としては2派までのフェミニズムの歴史とその主旨、ジェンダーという概念の歴史とその意味、そしてバックラッシュ派に対する反論、批判という感じになっている。

この文章は2000年代に政治的保守派が男女参画政策において、フェミニズムを批判する目的で、「ジェンダー」という概念を歪曲し、不正確な情報を流布して政治的に利用したことを指摘するものである。

余談*私の記憶が確かなら、この時代は官製フェミニズムが隆盛を誇っており、しかしながらこれのおかげで各自治体に男女参画センター、女性センターが作られた。2020年代でDVや性被害などの支援の中核になっているのではないかと思う。 

 さて、なぜそんな20年前の話を今年になって持ち出し、わざわざ記事にする必要があったのだろうか。
それは「ジェンダー」という概念の混乱が問題になっているからだろう。
 「ジェンダー」という概念を理解するためにじっくりと読んでいきたいと思う。




フェミニズムとは


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汚い図で申し訳ない。

一般的にはフランス革命を契機にフェミニズムが生まれたと言われている。
フランス革命では「全ての人は平等である」「人権」という概念が生まれた。
それまでは絶対王政だったから、王様と庶民は平等ではなかった。
しかし、その「人権」「全ての人間」には「女」は含まれていなかった。
なぜなら人権を持つ「市民」は兵役と租税をこなした者であるから。女性は2級市民扱いであった。
そこで女性の参政権を訴える運動が生まれ、それを第1派フェミニズムと呼ぶ。
「未来に花束にして」という映画はこのころの英国でのフェミニズムの運動を描いたものである。

第1派フェミニズムは「男にある権利(参政権)を女にも」という運動である。これはリベラルフェミニズムの流れになる。そしてこれは公の権利に対する運動、PUBLICに対する運動でもある。


しかし、参政権が与えられたとしても、女への抑圧と差別はなくならなかった。家庭内での権力差や性暴力、妊娠出産に関わる権利はそのままであった。それらを課題とした第2はフェミニズムが生まれる。
第2派の肝として紹介されているのは「人権とは男基準のものではない」という主張である。
「男基準の人権」にNOといい、女性の立場から「人権」を問い直すものだったとしている。

性暴力やリプロダクティブライツはSexの問題である。妊孕性、再生産などの身体の決定権は女性自身に帰属するという運動である。そしてこれも明確な「人権」であると訴えた。

私的領域での男性による女性への支配を「家父長制」と呼ぶわけだけど、これについては元記事には触れられていない。

第1派はPublicにおいて「男と同じ権利を」というリベラルフェミニズムの運動であったのに対し、第2派はPrivateにおいて「男基準の人権を問い直す(=家父長制批判)」というラディカルフェミニズムの運動であった。




ジェンダーとは

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ジェンダーとはそもそもジョン・マネーというひどい実験をした人が作ったものとされている。
彼のジェンダーの定義は「性自認」である。また彼の学説は現在否定されている。性自認は後天的に環境や躾だけで培われるものではない。

しかし、フェミニズムでは「身体によって一義的に決まる性差(=sex)ではなく、それぞれの社会や文化によって決まる性差」であると定義している。
例としてあげられているのは南洋諸島において、島によって男女の役割が異なる、「男の仕事」とされているものが別の島では「女の仕事」とされていたり、その逆があったりということがあげられている。
それにより「男らしさ」「女らしさ」とは文化(歴史もあると思う)によって変化するものであるということがわかった。


実は次に来る文章がよくわからないんだけど引用する。



ジェンダー=それぞれの社会や文化によって決まる性差」という概念を用いたのは、フェミニズムへの批判に対抗するという狙いがありました。当時、第二波フェミニズムに対して女が男になろうとしている」生物学的な性差を無いものにしようとしている」といった批判が殺到していたのです。この背景にはそれまでの学問、とりわけ生物学の影響があったことは否めません。20世紀のはじめまで女は学問すると子どもが産めなくなる」女は800メートル走ると死ぬ」といったことが、学問の名において論じられていたのです。


この文章なんだけど、性暴力やリプロダクティブライツって明らかにsex、身体の話であるのに、批判として「生物学的な性差を無いもののようにしようとしている」というものが出たのはなぜなのだろうか。
第2波フェミニズムは1960ー70年代の話だけど、さすがに「学問すると子どもが産めなくなる」とか「800m走ると死ぬ」なんてことをいう人はいなかったでしょう。
この文章が唐突に現れて、ちょっと意味がわからないという感じになった。

としても、このように締めている。


フェミニズムへのこうした批判に対し、そんなことを言っているのではない。男女の役割は社会や文化によってさまざまなのだから、私たちの社会に適した役割というものを考えていくべきだ。それには、生物学的な性差だけではなく、社会的・文化的な多様性をもつ性差にも目を向けるべきではないか。そうした議論のために、オークレーはジェンダー」という概念を使ったのです。



バックラッシュ派の陰謀論

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とういう、フェミニズムとジェンダーについて振り返ってきた上で、2000年代に起こったバックフラッシュとはなんだったのかという話になる。
政治的右派の人たちが、男女参画においてフェミニズムが訴えているものを歪曲して喧伝したものである。
官製フェミニズムのパンフレットには「ジェンダーフリー」という言葉が書かれていた。それらを逆手にとったものだったと私は理解している。
バックフラッシュ派が喧伝したものは

ジェンダーフリーとは「男女のトイレを一緒にする」「男女同室の着替え」「風呂も一緒」「フリーセックス」を推奨などというものだった。

しかし、それらはデマであってそんなことを勧めたいフェミニストはいなかった。
バックラッシュ派はジョン・マネーのジェンダー定義(性自認)にあえて注目し、その学説が否定されたことをもって、ジェンダーフリーに対するそのようなデマを流したのである。
フェミニストがジョン・マネーの学説を支持し、後天的な環境や対応によって性自認(ジョン・マネーのいうジェンダー)を変えさせようとしていると歪曲した。ここでいうジョン・マネーの学説とは「男を無理やり女にすること」「男と女の区別をなくすこと」である。
バックラッシュ派は性差を否定し、過激な性教育をし、フリーセックスを推奨する「ジェンダーフリー派なるフェミニストを捏造したわけです。


この後、エビデンスもない、ロジカルでもない言説であっても、国民に事実であるかのように思わせれば、それが通ってしまうことに危惧しているという話が続き、開かれた合理的な議論が必要であるとまとめられている。




さて

最後まで読んでみましたが、途中ちょっとよくわからない話もありましたが、基本的には真っ当な記事であって、異論を挟む余地もありません。

フェミニズムにとってジェンダーとは社会によって決まる性差であり、文化、時代によって様々である。ジョン・マネーのいう「性自認」という定義は否定されている。また定義として否定されるばかりではなく、科学的、医学的にも否定された。フェミニズムのいうジェンダーとは第2派フェミニズムでは重要な概念であり、privateにおける男女の権力さ、リプロダクティブライツや性暴力などsexに対する権利の擁立にも必要であった。それらは男基準の人権を再考させるようなものであった。

で、よく読み込まなければいけないのはバックラッシュ派への批判の部分で、バックラッシュ派の陰謀論とは裏を返せば、「sexによる性差はある」ということであって、その部分ではフェミニストと合意できるのである。問題なのは政治的保守はsexによる性差とフェミニストいうジェンダーを分けて考えられないといことである。また第2派フェミニズムが訴えた、男基準の人権をそのまま維持させようとしていることである。
そして2000年代だけではなく、20年経った第2派フェミニズムの課題はそのほとんどが解決の糸口すら得られていない。

第3、4フェミニズムと言われているが、それらは第2派フェミニズムの課題を棚上げし、それらに正面から取り組もうとしているようには思えない。

「男基準の人権」にしがみついている限り、身体の差がその能力の差であるとするしかなくなり、それは第2派フェミニズム以前の社会に戻るだけである。


twitterで

女性差別がその身体によるものであるのなら、女は永久に差別される側である。

というような趣旨のツイートが流れてきたことがあったが、まさにこれが「男基準の人権」にしがみついた思想である。

現在は「男基準の人権」に加えて、「新自由主義的アイデンティティ」ポリティクスと魔合体し、大変な状況である。
それらによって「誰が得するのか」「誰が割りを食うのか」ということを念頭におくために、おさらいしたいことが網羅できる記事であったと思う。










 

スポーツから暴かれるトランスジェンダリズムの問題

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この記事はtwitterで呟いたものを間違った情報を修正し、編集したものです。


スポーツが分りやすく「性自認こそ全て」という identity Ideologieの問題を炙り出しているけど、これは通底しているミソジニーの問題。



身体のテストステロンの問題に関しては以下の記事がわかりやすい。





金メダルを獲得したセメンヤさんは
テストステロンの基準値が「一般の」女性よりも多かったという理由で屈辱的で暴力的な検査を受けることになった。セメンヤさんは生まれた時からずっと女性であったのに。
その時に流れてきたtweetがセメンヤさんを取り巻く状況とセメンヤさんが女性であることを物語っている。


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屈辱的で性暴力とも言える検査の後、テストステロンのわずかばかり高かったことは「人為的ではない」と理由で、金メダルの剥奪は免れたが、その後規定が変わり、セメンヤさんはテストステロンを下げなければ陸上競技を続けることはできなくなった。


それから2年後の2020年10月、トランスジェンダーのMtFの選手の参加について、ワールドラグビーはこう結論づけた。





ワールドラグビー は3段階でレビューを行いました。

    1. 医学、生理学、心理学、リスク、社会倫理及びスポーツなど様々な環境についての理解を深める目的で、初めて多分野から専門家を集めた画期的なワークショップを開催し、トランスジェンダー コミュニティーの代表者や、プレーヤー、医学・研究専門家、またラグビーエキスパートらが参加。
    2. プレーヤーの身の安全が損なわれない形でのインクルーシビティーを目指すガイドライン策定への情報提供を行うため、ワークショップで得た結論や知識を包括的にレビューした。
    3. トランスジェンダー のアドボカシー団体や選手代表者、そして加盟協会からフィードバックを集めた。

 このレビュープロセスを終え、利用できる証拠に基づき、トランス女性が女子ラグビーに参加する際、安全と公平とインクルージョンとのバランスを取ることが不可能であるとの結論に達しました。
(太字は筆者による)


正直言ってこんな当たり前のことが喧々囂々と議論になること自体がどうなっているんだと思う。今日、NormについてのTweetが流れてきたけれど、このように色々なNormが壊れそうになっている。



「女性として生まれて女性とし生きてきた女性」のホルモン値が僅かばかりに高かったという理由で、彼女を「本当の女性であるかどうか」暴力的な検査を行い、陸上競技から排除した反面、男性として生まれて男性として発達してきた人、圧倒的にセメンヤさんよりもホルモン値が高い人が「女性として」陸上競技に出られるというその不正義をどう考えてるのか。それが不正義でなければ何なのか。そして、その不正義から受ける屈辱は女性のみであり、なおかつ有色人種の女性である。まさにインターセクショナリティの視点が必要なのではないか? 

 

 

セメンヤさんは生まれたままの身体ではなくホルモン剤を使用しないと女性として競技ができないとされた。そして男性として発達してきた人たちは数年間のホルモン治療さえすれば女性として競技に出られることになる。どれだけ女性の身体と女性の人格をコントロールし女性から成果や名誉を剥奪して女性というグループを解体しようとしているのかが非常に分かる。これらのスポーツのみの問題ではなく、全てに広がろうとしている。

 

聞いたことある反論では、「そしたらMtFの人たちはスポーツ競技に出られないのか?」というものがあるけど、FtMの人たちは競技を続けて結果を出すために、トランスを諦めているケースがあるということを指摘しておきます。そこの非対称からも女性に対する抑圧を見ることができ、「アイデンティティこそ全て」というidentity Ideologieはmaleのみにしか適応できないというこということがよくわかる。

「安全」と「安心」について

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私の専門はトラウマケアなので、「安全と安心」の感覚を回復させることが最も大切なことだと思っています。


「安全と安心」
 

よく聞く言葉ですし、わかっているような言葉ですけど、この「安全」と「安心」の違いをご存知でしょうか。


どちらが先立つかどうか、というよりもこの2つは異なる概念を持つものだと思っています。
 


私がスーパーヴァイズを受けた時、非常に重くて困難なケースだったのですが、先生は

「安心は無理かもしれないけど、安全の感覚を取り戻せるようにしよう」

という趣旨のことを言われたのを覚えています。

 

「安全の感覚」とは


猛獣と同じ部屋にいなくてはならないという状況になってしまった。いつ食い殺されるかわからない状態。

その時に猛獣が檻の中に入っていれば、少なくとも「安全」は確保されます。

猛獣が檻にいる限り、食い殺されることはありません。

しかし、安全であっても、全く心は休まらないでしょう。目の前で威嚇する猛獣がそこにいるのですから。



では「安心の感覚」とは

 

空襲で空から爆弾が雨のように降っている状況で、母親が子どもに「大丈夫だよ」とギュッと抱きしめた時、

全く安全ではない状況だとしても、子どもは安心の感覚を得ることができます。

養育者である母親が困難な状況であっても、ぶれないことが子どもを安心させ、世界に対する信頼感につながっていくのだろうと思います。



実際のPTSDの研究では後者の場合の方がPTSDに罹患しにくいという結果が出ているものあります。
 


私たちの世界において、絶対的な安全というものはありません。

明日何が起こるのかということをわかる人間はいませんので、明日私が交通事故を起こすかもしれない、明日東海地震が来るかもしれない。

そういう可能性を完全に排除することはできません。



私たちが明日も同じような日常が続くだろうと「信じている」のはひとえにこの「安心感」「信頼感」があるからです。
 


女性専用車両についてのバッシングが最近のTLで流れていますが、

女性専用スペースの外が猛獣だらけであれば、それは全く安心できないのです。

今の日本で生活している女性たちは、常に猛獣が潜んでいるかもしれない不安と恐怖を持っています。

今までに一度でも性被害や性暴力に会った人であればなおさらです。
 


それでも空襲で逃げ回る子どものように「安心」を得るためにはどうしたらいいのでしょうか。



性被害や性暴力を軽んじるような言動を許さないこと

性的なハラスメントを冗談やジョークのように扱わないこと

性被害に遭われた人たちへの二次加害を許さないこと

それらが「性加害を絶対に許さないというコンセンサスを確立すること」に繋がります。

逆に言えば、現在の日本では「性加害を絶対に許さないというコンセンサス」が未だ確立されていないということです。

性加害は「娯楽ではない」のです。



ジョークや軽い気持ちで女性を女性器(それもスラング)で呼ぶようなことは、自分たちは猛獣ですと言っていることと同じです。

性被害に遭われた人たちに「病院に行け」「頭がおかしくなった」などという人も自分たちが猛獣ですと言っていることと同じです。

前にも紹介しましたが、このようなことをいう人を許してはいけないのです。

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私は黙りません。

今も猛獣に苦しめられている人たちがいます。

空襲に逃げ惑う子どもの母親にはなれないかもしれませんが、少しでも「安心」を感じられるようになればと思っています。


 

女性差別に抗議することとターフと呼ばれること

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このブログを書いてもう9ヶ月になりますが、波があるもののずーっとTwitterで話題になり続け、その間に参議院選で「女性装」の方が出馬し、とんでもないイラストが拡散したりと落ち着いてきたかなと思うとまた炎上するということが続いているなと思います。

私の言いたいことは↑のブログ内容と全く変わりません。
そして、その対立構造もほとんど変わらないまま今に至っているように見えます。

私も「差別者」であり、「トランス女性を排斥しようとしている」と罵倒されることがありますし、私の書いたものは「トランス女性へのヘイト」であると言われたこともあります。女性差別や性暴力への懸念を示すことが、「トランス女性へのヘイト」という指摘を受けること。女性差別への抗議をしている人たち(いわゆるターフと呼ばれる人たち)の多くは「トランス女性を排除するつもりはない」ということを話します。なぜここまでこじれてしまったのか、誰が被害を受け、誰が得をしているのか。それらについて考えたいと思います。

(長いです。)



 





いわゆる「トランス女性」とは

出生時は生物学的男性であるが、社会の中で女性として生活しようとしている、またはしている、今後もその人生を歩む人。

それ以外は多様なジェンダーを生きる男性。多様なジェンダーを生きることはもっと認められるべきだと考えます。スカートやルージュを楽しむために「女性」であることは条件ではありません。美しさもたくましさも、「性」「sex」を絡める必要はありません。男性ジェンダーを放棄することが女性になることでもなければ、女性ジェンダーを放棄することが男性になることでもありません。
「女性として生きる」と言うことがどう言うことは今は言及しません。(後日別の機会に書きたいと思います)

以下、三橋さんの記事から引用

 私は生まれた時の性別は男性ですが、現在は女性として社会生活(仕事と日常)をしているトランス女性だからです。


なぜならトランスジェンダーの定義は「生まれた時に指定された性別と違う性別で生活している人」です。「外見が男性」では、実際問題、女性として生活できません。またトランス女性にとって男性器の存在は最も他人に見られたくないものです。それを隠さず女湯に入ってくるとしたら、それはトランスジェンダーではなく別物(露出症など)でしょう。



 


いわゆる「ターフと呼ばれる女性」の主張とは






その人物が男性か女性かによって、女性の警戒心や緊張感は大きく異なります。
女性同士を信頼しているというより、男性を信頼していない。 毎日の生活の中で、電車で隣り合わせる時、コンビニでレジを待っている時、エレベーターで目的階に着くまで。

それはフォビアでも嫌悪でもなく、圧倒的な不信です。

性犯罪を行うために、教師になる人、保育士になる人、PTAに参加する人、究極は父親になる人など枚挙にいとまがありません。

加害を行うために男性の一部は何かになりすまし、信頼を得て、犯行に及ぶ。


小さい時から、男子が暴力に親和的で、女子を叩いたり、蹴ったりしてくるのを見てきた女性たちが、気に入らなければ暴力を振るう男性がいることを知っています。

そしてそれは「男らしさ」としてコミュニティの中で大きな問題になっていないことも知っています。

性暴力に無関心な社会で、女性が声を上げるとそれを潰そうとする、真剣に取り上げず笑い話や侮辱しようとする、性暴力を支える男性がいることを知っています。

me tooなどで若干盛り上がってきているとはいえ、日本社会では性暴力や性差別に対して寛容で、ジェンダーギャップは先進国では恥ずかしい限りの状態です。


さて、その中で、「女性専用スペース」とはそれら男性優位社会、男性からの暴力からわずかながらに逃れられるスペースです。

「女性しかいない」という「お約束」はこういう意味で非常に重要です。
再度確認ですが、女性なら信用できるというよりも(女性もいろいろいますから)、プレデターになりうる男性がいないということが重要なのです。




これはオンラインゲームの話ですが、日本ではこのような状況が日常生活の中であります。

同時期にこう言うツイートの流れてきました。


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 しかし、 最近、印鑑の会社が痴漢撃退用の印鑑を発売しました。 




これは痴漢という社会問題に取り組むというメッセージになります。
企業がこのような姿勢を見せることは、女性の社会に対する不信を軽減する効果があります。

しかしながら、この試みすら多くの男性たちは反発しているのは、皆さんご存知だと思います。


多くの女性たちの、トランス女性を排除しようとしているとされる発言の趣旨は、以上の社会的背景があります。

ただひたすらに、男性による性加害に対する不安です。
女性スペースに「男性」を入れないてほしいという訴えです。

私がツイッターで見かけた「いわゆるターフと呼ばれる」女性を批判している、多くの男性のツイートはこれらの背景などを全く顧みず、または意識登らせることもなく、ただ不安を示す女性に
「差別者だ!」と罵倒し、 女性たちの男性不信をより高めただけの人たちでした。

人権擁護を掲げてこれらの社会の女性に対する暴力を全く不可視化し、女性に「寛容」を求め、責めることに熱心な人たちは、トランス女性を受け入れられないという話す人たちが、男性不信を募らせた結果であることを無視し、さらに男性不信を強める効果を発揮して、より反発を強める結果となりました。

さらには、女性たちの不安を個人の病理であるとして、家から出るな、病院行けなどとういうことをいう人たちもいました。


先日このような絵がツイッターにポストされました。非常に不快で差別的なものなので、閲覧注意です。

これはなりすましのアカウントであるという人もいましたが、これを「理論的には正しい」としている人たちがいるため、 このポンチ絵自体を批判することは正当であると考えます。

ある当事者は私との会話の中で「ジェンダー違和だけの人たちをトランス女性と呼ぶのはバカにしている」と言われました。 このポンチ絵は当事者から見ても「馬鹿なこと」なのです


トランスパーソンの権利擁護を訴える人たちの中でポンチ絵を

A理論的には正しい
B馬鹿なこと

という2つの意見があるということです。
論理的に正しいと言うのはこの記事に紹介されています。

アメリカ在住のトランスジェンダーの急進的な理論家が、トランス女性も女子トイレに入る権利があるというニュアンスの見解を表明。


これがTwitter上で拡散され、また別のトランスジェンダーの過去の発言などが切り取られ、トランス女性が女性の占有領域である女子トイレや女湯に入ろうとしている、という話が作り上げられたのだ。

「あくまで個人の見解であり、理論的にそういう権利があるという話にすぎません。公の場で、女子トイレや女湯に入ることを今すぐ認めて欲しいと要求しているトランスジェンダーはいないのです」




ここで問題なのは、「あくまで個人の見解」であるとしても、女性たちの不信を買うのには非常に効果的だったということです。 「過去のツイートが切り取られ」とありますが、それらは日々生活の中でみる「プレデターとしての男性的な発言」に非常に類似していたということです。

そのポンチ絵に対して、以下の要約のようなツイートが拡散されました。


温泉の女浴場でa)男性に居合わせてb)「体が男性だが、心は女性である」と言われても、c)強姦目的の男性である可能性が普通にあるのだから、d)逃げる。 e)手術してあるかどうかは大きい。


これをトランス女性に対するヘイトスピーチであると批判する方がいました。

では、a) c) d) だけであったらどうでしょうか。

温泉の女浴場でa)男性に居合わせてc)強姦目的の男性である可能性が普通にあるのだから、d)逃げる。


こうすると、男性からの加害に対する懸念です。そして、そういう状況は逃げるのは正しい判断です。

b)をいきなり言われることはまずないでしょう。またもしそんなことがあったとしても、d)逃げるは正しい行為です。

問題はa)=男性が女性浴場にいたということです。

e)に関しては現状Bの立場の人はあり得ないとおっしゃっていますから、やはりd)逃げるが正しい選択になります。

私たちにはb)を確認する必要はありません。 確認するすべもありません。

確認するのは私たちの役割ではありません。 できることは、目の前の脅威や不審に対して、正しい行動を素早く行うことです。

おかしいと感じたら、すぐにその場を離れて、通報することです。
問題はどんな性であるか、どんなgender iidenntity であるかではないし、トランス女性であるかどうかではないのです。

女性スペースを安全に使うというのはそういうことです。 防犯をより強めるための、現実的な工夫はもっと必要だと思います。


女性の中には男性不信が強く、生物学的に男性である、または生物学的に男性であったが「女性として生きる人」たちを未だ信頼できないでいる人もいると思います。
身近にトランス女性と交流がなく、信頼関係を結ぶ機会がない人たちです。
その人たちに「信頼しろ」と強要することはできないでしょう。 信頼できる材料がないうちに、信頼することはできません。信頼できるまでは警戒をするしかありません。

しかし、トランスパーソンの権利擁護を訴えている人たちの中には、それを強要し、受け入れなければ「差別者」だと女性たちにレッテルを張っている人たちがいます。 そしてそれらの女性たちに対して、現実生活のトイレで性器を確認でもするのか?というような、くだらない揶揄をいう人たちがいます。 その中には多くのリベラルを表明している男性がいます。


最近このような事件が報道されました。





これは差別です。アウティングも「下半身を見せろ」ということも差別です。 私はこのようなことはあってはならないことだと思います。 この方は法的にもすでに「女性」であり、「法的に女性である」ということは「性別適合手術」を受けたということです。それをなぜわざわざ職場に言う必要があるのでしょうか。 これは差別です。 実際に「女性として生活して、これからもその人生を送る人」にとって、ポンチ絵は有害です。

「理論的には正しい」と考えるAの人たちは、女性たちが信頼関係を構築する邪魔をしている、不信感を煽ることをし続けています。 もっと言えば、多くの女性たちにとって「トランス女性」とはBの人たちのことだと思っていたのにも、関わらず、Aの人たちによってその信頼感を壊された言ってもいいでしょう。先のルームシェアの話と同じように、不用意な発言が、それらの薄いギリギリの信頼感を壊したと考えていいと思います。



学校における配慮や脱病理化の課題

文科省はLGBTへの配慮を学校へ通知しています。

この通知は私も学校で受け取りました。正直感動しました。
学校も多様な性のあり方を受け入れる場になりつつあるのだと思ったことを覚えています。
実際にジェンダーの揺らぎのある子たちを相談室で受け入れており、「制服のスカートを履きたくないから学校に行きたくない」という女児への支援で体操着とジャージで過ごすことを許可してもらうように申し入れていたこともありました。

思春期なので揺らぎはありますし、その揺らぎがどのように変化していくかもわかりません。わかりませんが、あらゆる決めつけを排除し、その子の成長を支持していくことが、大切だと思います。

さらに以下のようなリーフレットを教職員用として配っています。


Q&Aなどもあり現場の教員にわかりやすいようになっていると思います。
読んでいて気づくと思うのですが、トランスジェンダーではなく「性同一性障害」と言う概念が中核であると言うことです。
そしてトイレ、更衣室などは、保健室や個室などプライバシーを守るための配慮、学校が適切な対応ができるように医療機関と連携したサポートチームを設置することが推奨されています。

これらの支援は特別支援の方法を踏襲しているのでしょう。

発達障害の子どもたちに対する学校での支援、特別支援の幅を性同一性障害にも当てはめていくと言う考えだと思われます。

そう言う視点で見たときに、センター試験や受験に際しても、特別支援の方法が適応されていくと考えられまます。

特別な配慮が必要な子どもたちの受験は、
・診断書の提出
・学校での特別支援指導計画や高校での支援の内容、実態についての報告書
が必須になります。詳しくはこちら


お茶大の出願申出書を見ましたが、診断書が必須ではないものの大きく特別支援と異なるわけでもないのかなと思います。
実態として女性として生活をしている、または生活をしようとしている子どもたちと言うことを重要視していると感じます。



脱精神病理化についてですが、




こちらの記事にも、また非常にそれを望む声があることも知っていますが、正直精神障害というものへの偏見をそこから感じてしまう。
また、「性同一性(実態は不明)」は明らかに「identity」の問題ですから、扱うとすれば「精神科」です。
三橋さんとツイッターでお話しした時も、実際は「脱精神病理化」としても、対応するのは「精神科」であるということでした。

と当時にトランスするために身体の変化を望む人たちも多くいます。





これを読むと「性別適合手術」に対する倫理的な問題、法的なハードルがどれほど大きかったかが、わかります。
人の生殖を阻害するための手術を違法にしないために、「性同一性障害」という疾患、概念が必要であったということです。
「性同一性障害」という疾患がなくなり、「性別適合手術」をしなくても、法的な性別を変更できるようになるのなら、「性別適合手術」はその大義名分をなくすことになるではないかと懸念します。

身体に苦痛を感じる人たちが、不利益にならないようにしてもらいたいと思います。


まとめ

以上長々と書いてきましたが、私が言いたかったことは、生きている人間、女性、トランスパーソンが生きにくくなるような理論は、それがたとえ今の性差別的な構造を壊すという目的であったとしても、全く賛同できないということです。

また、女性スペースに入り込もうとする男性を排除するために、「トランス」という言葉を使う必要もありません。
Aの人たちの理論や言っていることを真に受ける必要はありません。彼らの言っていることを真に受けることによって、結局、女性差別もトランス差別も温存することになります。

信頼関係を構築しようとしている中で、女性や子どもたちへの性的搾取を示唆するような発言(ルームシェアの例でいえば、「部屋に入り放題」「下着も見放題」などどいうこと)を許すべきではないし、それらの発言を放置しながら、女性のみに「寛容」を求める男性の話に耳を傾ける必要もありません。

男性がしなければならないことは、自分らの性暴力や性差別に対する甘さ、ホモソーシャルに浸かりきった自分らを内省し、改善することです。

それもできないうちに、何がダイバーシティなのでしょうか。
強者のみの多様性はただの抑圧です。

それらを煮詰めたようなものがトランスジェンダリズムであると私は考えます。

女性として生きるとはどういうことか、についてはまた別の機会に書きたいと思います。

 

Q子さんへのお返事


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明け方、うちの猫(↑犯人)がベッドの周りをどったんばったんしていて、ベットの隙間を一生懸命掘っていたので、何事かと思ってベッドの隙間を覗き込んだら、アブラコウモリがいました。
朝、6時前からアブラコウモリを部屋の外へ出すために箒を振り回して、無事に逃がすことに成功。 その後、ベッドに横になりながら、twitterを眺めていたら。。。


と言う@をいただいたので、拝見しました。


現在日本では通称「障害者差別解消法」という法律ができ、東京オリンピックも近いので、多くの公共の場所では多目的トイレや誰でもトイレのようなものが設置されています。
「障害者差別解消法」では地方自治体はもちろん企業にも、遵守する義務とそれに違反した場合の対応などが規定されています。

パブリックな空間でのユニバーサルデザイン化はどんどん進んでいくものと思われます。
(ちなみにユニバーサルデザインについてはこちらのサイトがわかりやすいです。)

その中に「性」というものも含まれてくることはもう止められないと思います。
使用者が男性で介護者が女性であったり、父親が女児をトイレに連れていくことがあったりなど、いろんな場面で「男女」のみで分けるのは支障があります。
ですから誰でも使えるトイレというのは今度数は増えていくでしょうし、その方が望ましいと考えます。

そういった面で都会でこれだけ施設が整備されていると知れたことは勉強になりましたし、ご紹介ありがとうございます。

私も久しぶりに東京へ勉強会に参加した時、山手線の小さな駅にも女子、男子、多目的とあり、さらに音声案内までしていたのを最近見たばかりだったので、法律とオリンピックでインフラが整うってのは本当なんだなと思いました。

さて、その上で。

トランスパーソンのトイレ問題に関しては、正直

「使える人は使っているし、使えない人は使っていない」

ということに尽きると思っています。確かそのような発言をしている当事者の方がいらっしゃったと思います。(が、国政に立候補した方がそれらの当事者の発言を無効にするようなことをおっしゃっていましたので、今後どうなるかはわかりませんけど。)

ですから、もし女子トイレに不審な人物がいたら、不審者として通報すれば良いと考えます。そこにセクシャリティは関係なく、不審な行動をしている人がいる=不審者というだけです。

性暴力を防ぐために必要なことをする。それだけだと思っています。

過剰な防衛を強いられるのは、社会そのものに信用に足る要素が足りないからです。

多目的トイレのように外圧によって、インフラ、体裁だけ整えられたとしても、それだけでは足りないのです。

私は前にも書きましたが、隣人として尊重していきたいと思っていますし、「フォビア、嫌悪」というものはありません(嫌悪があるとしたら、ミサンドリーですね)。

  • 私が言っているのは「女性差別」を不可視化することはやめてほしい。
  • 「female」のニーズやケアを「woman」という言葉で押しつぶすのはやめてほしい。
  • 性暴力被害者(ほぼ女として生まれてきた全ての人と言ってもいい)たちが生きやすく、また今後無くなるようにしてほしい。

ということです。

さて、Q子さんへのお返事だったはずなのに、自分の言いたいことを言うだけに終わってしまいました。
こんな感じでいかがでしょうか。




 

ジェンダーは既に撹乱している

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Twitterで議論されている「トランス女性とシス女性の対立」について自分が思ったこと、感じたことをまとめてみようと思います。
色々な人が色々な立場で色々なことを話ししていますが、
なぜ一部の女性がこれほど「差別主義者」「ヘイト」「フォビア」と言われていても、それをやめないのかを丁寧に説明しているものは、あまりありません。
フェミニストを名乗り、差別に反対してきた人たちがなぜ黙らないのか。それは本当に「フォビア」なのか。
その辺りをまとめられればと思います。




まず、私について

私は生まれた時からペニスは付いていませんでした。世界と自分の境界も曖昧だったそのころに「女」と名付けられました。いわゆるシスジェンダーヘテロセクシャルの「女」です。前思春期に初潮がきました。その頃をから自分の身体は嫌いでした。「男に生まれたかった」と思いました。やおいを愛し、「ゴーマニズム宣言」を読み、「スカートの下の劇場」を読みました。「MCシスター」や「オリーブ」を読みました。自分のジェンダーとセクシャリティを嫌悪し、名誉男性を目指した中高生時代です。嫌悪しつつもティーン誌を購読していた自己矛盾の塊です。
成人前後より、あばずれフェーズやアマゾネスフェーズがあったり、戻ってみたり、進んでみたりと色々ありましたが、結婚し、一児をもうけ、今は娘がいるシンママです。娘が生まれるまで意識してませんでしたが、生まれた時、「女の子でよかった。男の子ならどうやって育ててればいいのかわからない」と思ったことは覚えています。




前提として

トランス女性に反発していると見える人たちが私を含めて不適切な「差別的発言」をしたり「差別表現」をしてしまったかもしれません。しかし、その表現を使ったからと言ってトランス女性を「憎んでいる」「嫌悪している」「フォビアがある」わけではありません。「差別心」があることと「差別表現」を使用することは、必ずしも一致するわけではないということを確認したいと思います。
私(たち)はトランス女性に対して「憎しみ」も「嫌悪」もありません。
そうでない人もいるかもしれませんが、少なくとも私のTLにいる数名の方達は「憎しみ」を持っているわけではないということをお伝えします。



女風呂の問題


事の発端は「女子大問題だ」という人もいれば「女風呂問題だ」という人もいます。
私の考えは
女子大にトランス女性が入学するニュースをTwitterで見たとき、「それはいい事だ」と思いました。
Twilogで検索してみましたが、「よかった」ということをRTしているくらいしか見つけられなかったです。私にとっては
「トランス女性が入学を認めれることは当たり前のこと」
と認識していました。


女風呂について。今まで温泉や公衆浴場で私が気がつかないままトランス女性が入浴していた可能性が否定できません。しかし、私が怖い想いをしたことも、不都合を感じたこともありません。今までも女性専用スペースでの犯罪はありました。今後もきっとあるでしょう。その都度変な人を批判し、抗議していくだけです。変な人はその属性だから変なのではなく、その人が変だから変なので。
私たちはそういう世界に生きています。
ペニスがあるのに女風呂に入ることはあり得ないというトランス女性からの言葉もありました。
実際にそうなんだろうと思っていました。

しかし、TLで回ってきた現実のニュースを見たときに私は非常に動揺しました。


 ホテルの女風呂にカツラを付けたペニスのある人が入っていたというニュースです。
私が読んだニュースサイトは今は削除されてしまったみたいで見つからなかったのですが、そこには
「私は女性です」
と小さい声で何度も言っていたと書かれていました。

それを読んだ時に、
「この人がトランス女性だったらどうしよう」
と思いました。

私は難しいことですが、自分が差別してしまう可能性を持ちながらも、それに抗いたいと思っています。
だから、この人が「トランス女性」であったなら、通報されて警察に連行されるなんてことはあってはならないと思いました。白々しいと思う方がいるかもしれませんが、本当にどうしようとソワソワしました。
トランス女性から「ペニスがあるのに女湯に入るような人は通報してもいい」という方がいました。
あと「パス度」という言葉も見ました。
私はシス女性がトランス女性に対して「パス度」を問う事自体が非常に差別的だと感じます。

一方、私たちがセクハラや犯罪に巻き込まれる時、「まさか尊敬する人がそんなことを考えているわけがない」とか「相手はいい人だから自分に危害を加えるわけがない」とか「拒否をしたら気分を害するかもしれない(気分を害したら更に酷い暴力を受けるかもしれない)」と思って、多くの「女」が被害があっています。

この人が「私は女性です」と言ったときに、それを信用してもいいのかということもわかりません。
私たちはもう暴力を受けたくありません。

これが私たちが「犯罪者とトランス女性を区別しろ」という差別にも思える言葉の裏にあるものです。

自らの安全を優先すれば(通報すれば)差別者になり、
差別者にならないことを優先すれば、自らの安全が確保できない。

この二つの間で身動きができません。
 本当に嫌悪があり、憎んでいるのであれば、そんな躊躇はしません。
怪しいと思われる人を片っ端から通報すればいいのですから。 

実際には犯罪者を事前に区別することなんてできるわけありませんし、トランス女性が性犯罪を起こすわけでもありません。 
しかし、私たちは自分が差別者になるか、自分の安全を諦めるかの選択を迫られることについて反発しているのです。 

私が現実にこのニュースのような人に遭遇したら、まず逃げます。逃げるけど通報することに躊躇するでしょう。しかし通報しなかったことで誰かが被害に遭うかもしれないと思い、自分が差別者になる恐ろしさを抱えながら通報すると思います。



真の女?

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これが私の元になる考えです。
私はこの身体で生まれたからと言って、抑圧され、制限されるジェンダー規範を拒否し、なおかつ健常男性並みを1級市民とし、それ以外を2級市民とするような社会構造に反対してきました。

あるブログで女性の被虐待の歴史について丁寧な紹介がされたそうです。
でもそれは昔のことではないんです。今も続いている被虐待の歴史です。

それは「女の身体」だからこそ持たされたものです。


アフリカの「少女」に今も起こっていること


スクリーンショット 2019-01-24 19.01.20

これは遠い国の話なのでしょうか?



日本でももちろんあります。
最近、子どもだけでありません。
母乳も出ず、ミルクも買えない女性が1ヶ月の赤ん坊を死なせてしまったというニュースがありました。
罰せられるのは母親である「女」です。

なぜ「女」だけこんな目に遭うのでしょうか。

それは「この身体」があるからです。 

「女」というジェンダーはどんどん撹乱してもらっていいと思います。
「真の女」も「本物の女」も興味ありません。
「女らしさ」なんてのは「抑圧」の言葉でしかありません。

私たちはこの「身体」に押し付けられた差別と虐待をどうにかしてくれればいいのです。

医大は「女子学生は出産をし、体力がないから取らない」と言いました。
女子学生のアイデンティティでも能力でも技能でもありません。
「女の身体」が「妊娠し出産し、男並みの体力がない」ということで入学を拒否されたのです。

「性自認によって性別が決定する」

という理論は私たちの身体を透明にするものです。ないものにするものです。
女性の被虐待の歴史は、この理論によればもう「女」の歴史ではなくなります。
私たちは「性自認」によって、この「身体」に生まれたのではないのです。

「女の身体」への虐待と差別は構造化されています。
そして虐待と差別の加害の象徴は「ペニス」です。
「ペニス」によって傷つけられ、侵害され、望まぬ妊娠をさせられるのです。
その「ペニス」を「怖い」ということ自体が「トランス嫌悪」なのでしょうか。

それらの「女」の歴史に寄り添うことなく、禁止することがフェミニズムなのでしょうか。
伝える相手が違うというのはそうかもしれません。
しかし、あまりにも条件付けされすぎて、反射のように、自分でもコントロールできない場合もあります。それら全てが「トランス差別」であり「トランスフォビア」なのでしょうか。


私たちの「身体」と「身体に刻みつけられたスティグマ」をないもののようにするということは、私たちの「生」を認めないということと同じことです。少なくとも私にはそう思えます。

ですから、必死に抗議し、声をあげています。

同様に「トランス女性」にとっても、必死に抗議しなけれなばない大切なものを巡って戦っているのだと思います。
私はそれに敬意を表明します。
そして、なぜ私たちが声をあげているのかを理解してもらいたいと思います。


私たちにできること

私たちに何ができるのかまだわかりません。
しかし、まずはお互い譲れないものについて戦っているのだと認識するところから始められるのではないでしょうか。
そして、私たちはトランス女性を排除したいわけでもないのです。
「ジェンダー理論」や「クィア理論」に反対し、批判したとしても、隣人である個々人のトランス女性を攻撃しているわけではないのです。



 

精神科は何するところぞ

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大変ご無沙汰しております。
何だか色々ありまして、公認心理師関係のこともあったり、仕事で色々あったりと忙しくしていました。
もちろんゲームもやっております。今はFF14を再開して、すっかり忘れいていることばかりで戸惑っています。


さて、今日こんなついったランドでこんなことを呟きました。


これは前段階の話がついったランドでありました。
あるマイノリティ属性を持つ方に支離滅裂な罵倒を浴びせかける人がいて、丁寧に対応をしていたけど、全く埒があかない。そして最終的にその人に対して「病院に行ったほうがいい」と勧めたと。
それに対して、「それはトーンポリンシングだ」「精神疾患への偏見だ」という人が現れて。。。
ということがありました。

なので、

精神科行った方がいい 

というワードが出てくるのだと私は思いました。

私がツイートで紹介したはてなの人は精神科は助けにならなかったと言われています。
そういう方もいると思います。私も精神科で何もお役に立てなかったなと思うことがありますので、大変申し訳ないと思います。

ただ、精神科って何するところなのか?というのが世間でどれだけ具体的にイメージされているのだろう?と疑問に思いました。少なくともこの方は精神科に何を求めて行ったのだろう?と。

その辺を田舎の末端の精神科医ではなく、臨床心理士が独断と偏見で書こうと思います。(長いです)




基本

当たり前ですが精神科は病院です。病院とは病気を治すところです。逆に言えば病気以外は対象外です。
先のついったランドのやり取りは私も見ていました、あの場合は「ヘイトスピーチをしているから」病院行った方がいいではなく、「支離滅裂な発言をしているから」病院行った方がいいんだと感じました。支離滅裂で訂正不可能な不合理な確信を持っている場合、病気の可能性があると考えるのはおかしいことではないですし、身近にそういう人がいたら、やはり病院を勧めるでしょう。

そうはいっても、自分が病気かどうかはわかりませんし、今現在苦しいのは確かであったら、病院に行くのは当たり前です。何だかわからないけど、しんどいし、微熱が続くみたいな時はとりあえず内科を受診するのと同じくらいに気軽に精神科に受診できるようになればいいいなと思います。

ハードルが高いと感じる精神科に予約をすること自体が結構しんどいことだと思います。そしてこのつらさをどうにかしてくれるのではないかと期待もします。しんどければしんどいほど、ハードルが高ければ高いほど、期待も上がっていくのではないでしょうか。

基本、初診は、予診というものを先にします。予診を取るのは心理士の場合もあるし、精神保健福祉士の場合もあるし、看護師の場合もありますし、医者の場合もあります。今の状態や家族歴や現病歴やその他色々聞かれます。そして担当医の初診が行われます。予診は結構長いし、初診も結構長く話を聞きます。
そして、治療の方針を決めて処方するという流れです。(予診しないところはおすすめできないかも)

逆にいうと、初診以外は短いです。5分診療と揶揄されるけど、人気のあるところは1日30−50人診るので仕方ないですね。
医者の仕事は薬を主軸として病気を治すことなので。

症状の軽減が一義的な目的になります。症状の軽減は主に薬物療法という医者が多いです。
ですから、症状についてきちんと現状を話しをすることが大切です。
薬の副作用や飲み心地などもフェードバックしないと適切な処方はできないので、伝えることが必須です。


精神科は他の科よりも一緒に回復していくという共同作業の面が強いと考えた方がいいです。
治してもらえると思うと裏切られ感が強くなります。


精神科とか心療内科とか神経内科とか

精神科、心療内科、神経科、神経内科などなど何だか色々あってよくわからない人がいるかもしれません。てんかんやパーキンソン病、脳性麻痺とかなら神経科・神経内科がいいでしょう。

でも何だかよくわからないけど、うつ病チェックで点数が多かったぞとか、パーソナリティ障害のチェックやったら心当たりがあるぞ、リストカット、依存、などなど場合は「精神科」がいいと思います。

心療内科ってのは主に身体に症状がある人が対象になります。ただうつなどでも身体の症状がある場合があるので、その辺は行って見てから心療内科ではなく精神科の方が適応だと判断すれば転院を勧められます。



単科精神科の特徴

私は単科の精神科とクリニックしか働いたことがないのですが、一番コアなのが単科の精神科です。
精神科だけの入院施設がある病院です。昔は鉄格子がハマっていたようなところです。
今はだいぶ明るい雰囲気になりましたが、入院が必要で且つ閉鎖病棟が適切だという方は単科の精神科が第一候補になるかもしれません。

閉鎖病棟が必要な方はとは。。。自殺企図があったり、ある程度の行動を制限した方がいい人です。

あとはコメディカルが充実しています。コメディカルとは医者以外の精神科医療に関わるスタッフです。
たとえば作業療法士や精神保健福祉士、言語聴覚士、そして臨床心理士などです。

少なくともほぼ臨床心理士以外はいます(笑)なぜなら保険点数が取れるからです。
障害年金や手帳、自立支援など制度やお金の相談は精神保健福祉士へ、リハビリは作業療法士へ。
そしてカウンセリングは臨床心理士へ医者から指示が出ます。心理検査も心理士が行います。
心理検査を絶対してもらいたい!という場合は単科精神科であればほぼ取ってもらえると考えられます。
またデイケアを持っているところも多いので、リワークを受けたいとかそういう希望がある場合は単科精神科が良いと思います。(リワークやっていないところもあるから調べてね)


精神科クリニックの特徴

最近は筍のようにできているのがクリニックです。小洒落たサロンのようなクリニックもあるので、抵抗はかなり少なくなってきているかもしれません。私が現在勤務しているクリニックももちろん小洒落ています。

正直、単科精神科よりも当たり外れは大きいと思います。

「行きやすいけど当たり外れの大きいクリニック」

ってのは覚えておいたほうがいいでしょう。あとは、患者さんの口コミも大事ですが、患者さんから人気はあるけど地域の医療者からは引かれているというところもあり、なかなか難しいです。人気はあるけど治らないというところもありますwww

クリニックはピンキリです。コメディカルが一切いないというところもあります。
なので、ちゃんと調べた方がいいでしょう。

心理検査を受けられるか?カウンセリングを受けられるか?デイケアはあるか?などHPをチェックしましょう。



独断と偏見の医者選び

精神科はとにかく幅の広いです。年齢層も幅広く、適応症も幅広い。だから一人の医者が全てを網羅してなんでもどんと来い!みたいなことは無理です。

その先生の専門、興味はなんなんだろう?
 
ってのは非常に大事だと思います。

特に大人の発達障害は診れる先生は少ないでしょう。ADHDの治療薬(コンサータ)を出せる先生も少ない*1と思います。小児科の先生の方が多いんじゃないかな。

だから自分が発達障害ではないか?と思われる人は少なくとも心理士がいて、その分野についてHPなどで言及しているところなのか?はチェックポイントだと思います。電話で問い合わせてもいいと思います。

HPでその医者の経歴をざっと調べてみるとか、どんな論文を書いているのか、どんな学会に入っているのかとかもチェックポイントかな。

私の中ではどんな学会に入っているかってのは注目ポイントだと思っていて、その先生の興味関心が表れているじゃないかと考えています。

あとは

精神保健指定医を持っている先生は精神科が専門の先生である

と言えます。持っていないから専門ではないとは言いませんが、少なくとも持っている先生は精神科で食ってきた先生だと言えると思います。


カウンセリングについて

カウンセリングは保険診療外、自由診療のものです。CBT(認知行動療法)は医者と看護が施行する場合は保険で受けられます。しかしほとんどのそういうケースはありません。

心理士がカウンセリングをする場合は自由診療になるので、地域によって異なりますが、5000〜15000円/50分くらいで受けられます。

医療機関に併設されている場合と独立開業している場合があります。

今でもまだあると思いますが、保険でカウンセリング受けられるよ!みたいな声をついったランドで見かけることがありますが、それは限りなく黒よりのグレーなので、臨床心理士で今後公認心理師を確立させたいと思っている私は根絶したいと思っています。

今後公認心理師が正当な手続きで保険でカウンセリングを提供できるように頑張りたいと思っています。

で、カウンセリングこそマジでピンキリで、高いからいいわけでもないけど、腕のいい人は安くないという、本当にユーザーからすると勘弁してという状況です。

心理療法はそれこそ花盛りでWHOで認められているものから、眉唾物まであります。

その心理士の特徴もありますからなんとも言えない。

ただ、医者は話を聞いてくれないと不満に感じる人はカウンセリングを受けることでその不満が解決することができるかもしれません。

公認心理師資格できた今は、医療と連携を取ることを明確にしているところが大きく外れることはないでしょう。

そういうことを一切書いていないところはお勧めしません。気になったら電話で問い合わせてみましょう。



というわけで、ざっとやっつけで書いてみました。
何か質問があったら、質問箱とかにしてみてね〜。
ではでは。










*1コンサータを処方する場合、処方医はコンサータ錠適正流通管理委員会に登録しないと処方できません。

「性暴力と修復的司法」を読んでの感想というか思ったこと。#2

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前回の#1から随分と間が空いてしまいましたが、#2です。

性被害のトラウマセラピーをしていると、必ずクライアントの「なぜ?」という疑問からは逃れられません。

「なぜ、こんなことが起きたのか?」
「なぜ、こんなひどいことをするのか?」
「なぜ、私なのか?」

本に書かれているように、それに応えられるのは、加害者本人だけです。

大阪大学の藤岡先生は性犯罪の「再発防止プログラム」を牽引してきた先生ですが、
何年前かな。
藤岡先生と信田さよ子先生のWSが心理臨床学会であって、それに参加した時に、
加害者のaccountabilityについての話をしていました。
accountabilityとresponsibility
どちらも日本語では「責任」と訳しましすが、その違いについての説明をされていました。
こんな記事を見つけました。

日本語にはない「責任」に関する「RESPOSIBILITY」と「ACCOUNTABILIY」の違いとは?
 
    • 「responsibility」:Responsibility may refer to: being in charge, being the owner of a task or event.
    • 「accountability」:In ethics and governance, accountability is answer-ability, blameworthiness, liability, and the expectation of account-giving.
これ見て思うのは、accoutabilityはanswer abilityっていうの、面白いよね。
直訳すると「応える能力」 

加害者は自分の行為によった起こった結果に対して「応え」ないといけないということです。
加害者がの行為の結果で損なったものを埋め合わせる。補償する。償うということ。
ただ、加害者側の償いは被害者からの拒否も含めたものではないといけないし、加害者の回復のために被害者が利用されてはいけないと強く思います。
その上で、被害者からの「問い」も加害者が応えるべきものでしょう。

ちょうどこの本を読んでいる時に「ホログラフィートーク」というトラウマセラピーのWSに参加をしていました。
「自我状態療法」の一つです。
これはイメージの中で、問題となる出来事の関係者と話しをすします。
実際の加害者ではなくとも、イメージの中だとしても、この「応え」を得られる方法の一つなのかなと。
そしてこの本を読むことで「ホログラフィートーク」の意義や効果についての考察を深く考えられたということと、「 RJ」が心理的な回復にもたらす影響についての気づきも得られたのも良かったです。
タイミングの良さに感謝です。
 

被害者が加害者へ問いかけるということは、被害者が「主体」となって、奪われた自己を取りもどすということにです。
被害者は被害に遭うことによって、いろいろなものが奪われます。
また、症状によってもたくさんのことが奪われます。


自己は共同体の中で形作られます。でもそれだけでなく共同体の中で作られる自己を相対的な自己とすれば、絶対的な自己は確かに存在します。

アイデンティティの確立の時期と言われる思春期には友だちとの関係が大きく影響して、

自分は丸だか友だちの丸とは大きさが違うとか

彼女は楕円であるとか

彼は四角であるとか


比較し、そう眼差されること、そう評価されることでアイデンティティの外側は形作られます。
でも、それだけでもなくて、

私は私であるという絶対的な自己


も同じように育てたなければ、いわゆる周りの目を気にして動く/動けない子になります。


主体としての私とは「絶対的な」私であると言えるかもしれない。その2つは両輪であるからこそ機能すします。

トラウマを受けた人たちはこの「私は私である」という確信が薄くなっています。自己の身体の境界さえもあやふやに感じます。 
その中でこの加害者への「問い」はもしかしたら被害者の一番最初の「主体」の表れかもしれません。


そう考えると「RJ」の期待は高まりますが、セラピストとしては
「勘弁してくれ」
と思ってしまうんですが、それは次回にします。 











 

トラウマフォーカスト認知行動療法(TF-CBT)


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(2014/3/27の記事)追記あり


トラウマ治療においてエビデンスが確立している治療法はいくつかあります。
詳しくはこちら
トラウマティックストレス学会
武蔵野大学心理臨床センター


その中でこのトラウマフォーカスト認知行動療法(以下TF-CBT)は比較的安全で効果のあるものだといわれています。
TF-CBTとは
TFCBTの有効性は、1980年代末ころからRCTによる研究で繰り返し示されてきた。その多くは、治療のコンポーネントとして、トラウマ記憶へのエクスポージャーや認知の修正などの技法を含んでいる。その中核となっているのが、Foa EBらが1980年代に提唱し実証結果を継続的に発表し、マニュアルや解説も発表されている持続エクスポージャー(Prolonged Exposure以下PE とする)療法である。
武蔵野大学心理臨床センターより


私も現在勉強中であり、実施しています。
兵庫県心のケアセンターで配布しているTF-CBTのワークシートはとても助かっています。
さて、そんな私がどこで研修を受けたかというと
Seeding HopeというNPOで勉強させて頂きました。
TF-CBTだけではなく、ナラティブエクスポージャーなども学びました。
そのSeeding Hopeが現在行っている活動で寄付を募っています。
(追記2018年現在は解散しています。)



私もモニカ先生のお話聞きました。もっと支援職にいる人たちにこのスキルを学んでもらいたいと思います。

みんな言わないけど、多くの子どもたちがトラウマにさらされています。
でも言わない。子どもも大人もトラウマを受けていることを言えない。
自分の身に起きたことが被害だと気がついていない。
回りの大人もそれが被害であると認知していない。
そんなことが生活の中でたくさん起こっています。
被害だと認識していなくとも、傷つき、くじかれていきます。
そういう人に出会った時に適切な対応が取れる、支援者をたくさん増えてほしいなと思います。









(2018/2/2) 追記。
TF-CBTの記事が地味にコンスタントに伸びているので、ちょっと言及します。
トラウマ治療において、周りの人の理解と温かい支援が不可欠で特に子ども場合は親御さんの理解と安定性が大きな影響を与えます。
なので、最初に親子への心理教育にかなり時間を割くことになります。
CBTに熟達した先生から、「非常に厳密にパッケージされたもの」という意見がありました。
まさに、かなり構造化されたものだと思います。
それはやはり「トラウマ」の特殊性に原因があると思います。

上記の本は参考になると思います。
興味のある方はどうぞ。
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