世界を模索日記

もやもやしていることを聞き散らかす日記です。 気が向くと毎日更新。 そうかと思うと半年放置。 そんな感じでやってます。

性被害に遭う事は防げるのか?

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私のところには、たくさんの傷ついたひがやってきます。
その中には性的な被害に遭った方も少なくありません。例外なく「自分が悪かったのではないか」「自分がちゃんとしていればこんな事にならなかったのではないか」「これは自分の責任なのではないか」という自責の念を持っている。
トラウマを受けた人の多くはこれらの自責を感じます。
それに周りや社会的な声が、無防備だった被害者を責める声で溢れることもある。
そんな格好でいたからだ。
もっと用心深くしていたらよかったんだ。
相手を怒らせるようなことをしたんだろう。
思わせぶりな態度をしたからだ。
などなど。
でもそれは本当なのか?
私たちは用心をすれば100%被害を防げることができるのか?
私はそう思わない。
加害者は加害をしようという意志を持っている。
百歩譲って、仮にものすごく用心をしていれば、防げるとしても、そのものすごい用心のために、常に神経をとがらせて、常にピリピリとしていなければならないのか?
なぜ私たちがそれだけのものすごい労力をかけて生きていかなればならないのか?
私たちは、基本的に世界を社会を信頼して生きている。明日、天が落ちてこの世がなくなると思っては生きていけない。人に挨拶すれば挨拶に応じてくれるし、いきなり殴られることはないと思って生きている。
私たちはそういう信頼関係の上でしか生きていけない。
その世界への信頼関係をことごとく壊すのは加害者なのだ。
加害者はたまたま見つけた人をただ襲う。
気に入ったから
抵抗しなさそうだから
気が弱そうだから
そこに必然的な理由などない。被害に遭うのは、何かしらの落ち度があったためではなくて、たまたま加害者に見つかってしまっただけ。
問題は加害者にある。
被害にあったは人たちに問題があったわけではない。
そしてどんな理由があろうとも、人の身体を侵害することは許されないこと。
性被害だけではなく、交通事故に遭うなどもいくら用心していても100%防ぐことはできない。安全運転していたとしても、暴走運転の車にたまたま当てられることはあるわけだ。
性被害に遭ったのは、被害者の責任ではなく、加害者の責任であって、被害者は自分を責める必要は全くない。
心ない外部の声に耳を傾ける必要もない。
生き残って今生きていること自体が勝ったと言っていいと思う。


「二人称の関係」に留まるとはどういうことか。

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前回の記事こちらを受けて。

さて、ブログをアップした後、著者の小松原さんからご感想を頂いて、大変光栄なことなのですが、そこで、私が当たり前のように思っていたことは、心理ワールドの話で外の人達には全然共有されていないことが、はっきりと確認することができました。

 Thが「二人称の関係」に留まることが必要

というのはどういうことなのか?そして、Thは何をする人ぞ?

と問いかけられたように思いました。

そこで私は、「トラウマの告白」自体が「二人称の関係」に引きづりこまれる力があるという話をしたのですが、そこで小松原さんは

それはTh側の問題である。

と言われたんですね。

はい。全くその通りです。

 Thは「二人称の関係」と「三人称の関係」を行ったり来たりする選択権を持っている。
全く、Thと Clは対等ではない。
で、その行ったり来たりをClは裏切りと感じることもあるでしょう。

で、これは構造的なシステムの話であるんですが、私たち心理の人間にとってはさらにその内的なシステムにも注目するわけですね。

「トラウマの告白」はClがいつ誰にどのように行うかを慎重に選んで行われることが殆どです。そうでない場合はまさに二次加害であるでしょう。(少なくとも、Thがそんなことはしないと思っています)
ですから、私たちがその告白を聞く時は、私たちが、Clに選ばれたと言えるのではないかと思います。
ですから、ThとClの間の「二人称の関係」はTh側の問題であるが、それはClが選択できるものでもあるのかなと。

被害者は「なぜ私なのか?」と問うことを必要するが、ThとClの関係は最初から提示された条件の中での関係であるがゆえに、制約を受けます。

初回で一切トラウマの話をせずに来談されて、一年くらい経ってから「告白」をされることがありますし、被害者支援センターからの紹介以外はほとんどのこのパターンです。私の経験では。

その一年というのは、私が値踏みされて、信頼たる人間であるのかを見極めているのだろうと思いますし、それは当たり前だし、その方が健全です。
その過程があるから治療同盟が結ばれる。いや、私は「トラウマの告白」自体が 治療同盟が成立していないとされないものなのかもしれないなと感じます。だから「なぜ私なのか?」というという問いは生まれることはなく、率直に言えば「私はトラウマを告白しても耐えうる人間だと判断された」「信用された」と答えを得られるのではないでしょうか。


学校ので大きな事件があった時、震災の支援に被災地に入った時、その地平は常にぐらついていて、まっすぐ立っていられないような感覚がします。外から入った私ですら感じる感覚ですから、そのコミュニティ内部の人たちはグラグラとその地平と共に揺れ動いています。
その中で、できるだけその地平に影響されず、じっとまっすぐ立っているものが必要になるし、それを目安にすることができます。それが支援者の大きな役割の一つです。
できるだけ、動じない人の方が、揺れている人にとってはいい、一緒に揺れ動く人は何も支えにならないのです。
常に同じでいることの大切さというものあると思います。
それが「三人称の関係」です。

どんなひどい出来事のトラウマを聞いたとしても、全くそこから距離を取り、動じないということもできます。傍観者の立場です。Clの体験していることは常に自分の外の出来事であり、自分はそこには関与しない。そんな態度を取ることもできます。

また、自らのトラウマを刺激され、非常に動揺し、一緒に海に放り出されるように沈んでいくこともあります。溺れる人を助けに行って、一緒に溺れる人です。

で、Thはそのどちらにも容易に陥ります。逆に言えば、Thもその間を振り子のように揺れ動くものだろうし、それがセラピーであると思っています。熟達すればその振り子の振れ幅は狭くなっていきますが、だからと言って、振れないわけではないわけです。

なぜ、傍観者ではいけないのか?

セラピーにおいて、ThとCl、DrとClだけではなく、「人と人とが出会う」ことが必要だからです。心理療法は症状の消失だけではなく、人としての苦しみについて扱います。その中で、一人の人間として目の前のあなたに向き合わないとならないのです。

「私とあなたが出逢う」

それがサイコセラピーまたは心理療法なのです。
だからこそ、Thの前には「他でもない『あなた』」が立ち現れ、引きづり込まれるのです。

このへんの話はたくさんの書籍がでていますので、ご自分の好きな学派の好きな先生の本をお読みください。

私の「『二人称の関係』に留まる」とはそういうことなのかなと思っています。


「関係性」を選択している(時と場合によって使い分けているとも言えます。使い分けを一瞬一瞬選択していると言ってもいいかもしれません。)のは確かにThですが、その「関係性」は静止しているわけではなく、常に治療同盟の中でダイナミックに変化しているものであり、その変化はThがコントロールしきれるものでもなく、常に緊張と弛緩を繰り返していくものです。選択権というと非常に確固としたコントロールできるものと思えますが、実は微妙なバランスの中で成り立っているものです。そして、私たちは報酬分」のリターンをきちんと提供出来る結果を出すことが求められます。


いやー、こうやって書くとめちゃくちゃ難しい事ですねぇ。
若い衆にとっては脅しとしか言えないような文章になっていますが、この20年選手の私も難しいと思っているので、めちゃ難しい事だと思っていてほしいです。

日々怠らず、精進したいと思います。



精神医学的面接
サリヴァン,H. S.
みすず書房
1986-12-09




 
最終講義―分裂病私見
中井 久夫
みすず書房
1998-05-09

 

「性暴力と修復的司法」を読んでの感想というか思ったこと。#1

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Twitterでも感想を書きましたが、ブログでもうちょっと書こうかなと思います。


読み始めて最初に興奮したのは「二人称の関係」という概念です。
いやー、興奮しましたね。
これはよくうちの一門*1で言われる「出逢う」ということに通じるのもではないかと思いました。
この「出逢う」っていうのは、他でもない「私とあなた」という関係性であり、それはThとClの間でも成立する関係です。

しかしあくまでもThとしてその人の前に現れるものであるわけで、その辺はThは「二人称の関係」であると同時に「三人称の関係」に留まることが重要なことです。
ここで、「二人称の関係」のみに陥ると、いわゆる「巻き込まれる」状態であり、二次受傷や燃え尽きなどのリスクを上げることになります。

かといって、ただ「三人称の関係」の中にいたのならば、それはサイコセラピーとは言えないでしょう。コーチングなどはこの「三人称の関係」のみのように思えます。

「心的外傷と回復」でハーマンは、
治療者が政治的に中立的であろうとすること自体が、性暴力被害にあったクライアントに対する裏切りである
というようなことを言っていたと思います。(正しくは本を読んでくださ)

私たちはClが私たちの元に訪れて、その苦しみをClが口にした瞬間から「私とあなた」の関係に陥り、その中から回復への一歩を踏み出すのです。

ThとClはのっぴきならない「二人称の関係」の中に入り込んで行きます。セラピーの中で色々な感情が湧いてきて、怒りや悲しみや絶望なども溢れてくることもあります。「あなた」を侵害した「加害者」と「私」という関係も成り立ちます。それら多くの感情、情動を我慢した上で、「三人称の関係」としてThという立ち位置を踏みしめていくことが必須であり、そこを通過することで健全なサイコセラピーが成り立つと考えます。*2

もっと言えば、「効く」サイコセラピーとはそういうものだと思う。

私たちは、酷い被害であればるほど「そんなことが起きるはずがない」という否定の心理が働きます。

宮地尚子の「トラウマの医療人類学」にもその辺は詳しく書いてありますね。
世界に対する信頼、コミュニティに対する信頼を揺るがすような、被害があれば、自分の安心感が脅かされるからです。

例えば、学校で事件事故が起こった時に、もうだいぶ前から緊急支援として、スクールカウンセラーが派遣されるようになりました。
私も何度も派遣されたことがあります。
何かしらの衝撃がコミュニティ内で起きた時に、そのコミュニティには嵐が吹き荒れ、すべての人がその嵐に巻き込まれます。特にもともと脆弱な人はその嵐によって、強く影響を受けやすくなります。

緊急派遣でスクールカウンセラーが行うことは、支援が必要な人たちを見つけ出して、支えること、そしてそのコミュニティ自体を下支えし、コミュニティを立て直すことが重要です。

しかし、被害の告白が告白した人と告白された人の間で、魔術的な作用が働き「私とあなた」というのっぴきならない関係に引きづり込みます。それはトレーニングを受けていない人にとっては恐ろしい経験なのではないかと思います。

学校内でのいじめなどはそれらが絡まり、「いじめ被害はなかった」または「それほどの被害ではなかった」と矮小化し、コミュニティの維持を最優先にして、解決しようとする力も働きやすいと思われます。

それらの構造が性暴力にも内包されているのではないでしょうか。だからこそ、私は「修復的司法」には懐疑的であり、 それがどのような意味があり、それがどのように作用するのか?という興味を持って、この本を読むことができました。

とりあえず、今日はこの辺にしておきます。


ジュディス・L. ハーマン
みすず書房
1999-11-26


宮地 尚子
みすず書房
2005-07-22



小松原織香
成文堂
2017-11-12




*1 最近この一門での勉強会に行っていないので、一門とは言えないかもしれない。てか、誘ってもらえない。。。:;(∩´﹏`∩);:

*2 ここでThの立場から転がり落ちた人が、事件を起こすような人です。注意してください。






 

新年早々ですが。


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まずは、新年明けました。今年もよろしくお願いいたします。(喪中のため、祝いの言葉は控えました。


さて、新年、いや年末から、テレビのことでもう炎上続きですよ。

大晦日の笑ってはいけない〜は私も毎年観てました。5年くらい前までかなぁ。
最近は全然見る気がしないので、観ていませんでしたが、放送中からもうついったランドで持ちきりでしたね。

「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安

浜ちゃんのブラックフェイスは黒人差別なのか 知らなかったでは済まされない

「ガキ使」浜田雅功の黒塗りメイク BBCやNYタイムズはどう報じた?

SNSがあるおかげで、世界の辺境の地の田舎者の愚行もこうやって世界中に発信されるという事態。


他にも今年の「笑ってはいけない」では「不倫をした罰」で女性に「制裁」という「笑い」を放送したそうだ。

ベッキーにキック痛打 ダウンタウン年末特番-国連、憲法の視点からも最悪

さて、そんな中TLでこんなtweetが流れてきました。
結構長い動画ですので、じっくり観れる時に観てください。
 

これ観るとわかるんだけど、人種差別反対という人に批判をする人はどこの国の人もほぼ同じことを言っています。これオランダのドキュメンタリーなんだけど、オランダってちょっと引くほどのリベラルな国みたいなイメージがあったんだけど、ああ、どこでも同じ問題を抱えているんだなとしみじみ思った。
ま、でも裁判所の場面では裁判官4人が全て女性だったのには、やはり日本とは基本が違う。。。
とまたしみじみ思ったわけだけど。
白人特権についての説明と実験があって、それは白人を男性とか健常者とかに変えてもやはり同じような特権があると考えられると思う。

これは偏見からは逃れられないけれども、私たちが私たちの社会をどのようにしたいのか?何を許容し何を拒否するのか?ということであることを示唆している。

ベッキーの件についてはこうtweetした





これも同じなのです。
私たちが生きるこの社会をどのようなものにしていくのか?ということなのです。
「その表現が不快である。傷つく」という人たちにたちに対して、私たちがどのように答えていくのかということ、またよりよい社会のために何を許容して、何を拒否していくのかということ。

ベッキーがその行為を許容したとしても、その行為をテレビという媒体で表現されることを私は望まない。
女性がプライベートの人間関係について、何も関係ない男たちから、「制裁」を受けることを「笑い」として「エンターテインメント」として許容することはできない。

顔を黒く強調することで黒人をステレオタイプに表現して、「笑い」として「エンターテインメント」とすることを私は拒否する。

そういう声がたくさんになれば、それはすでにエンターテインメントとして失敗している。

これはそういう話であって、リスペクトがあるだことの、日本は黒人差別を共有していないとかそういう話ではない。

そこのところを間違えないようにしたい。

 

「キモくて金のないおっさん」の話題


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今日はクリスマスですね。メリクリ〜。ローストチキンをぎゅうぎゅ焼きで焼いてみました。
twitterでは「クリスマス粉砕デモ」も昨日やっていたってのを見かけたんですけど、うちは普通にチキンとケーキ食べました。家族の日でカップルの日ではなかったです。

さて、この前twitterでこんな会話をしました。




この件については前から色々なんだかとりとめなく思うところがあったんですけど、最近は多分本人たちにとっては必死なんだろうなと。
ヨハネさんのtweetで改めて思ったわけです。

モーメントにも載せておきましたが、彼らが何を望んでいるのか、何を欲しているのかがわからないのは、彼ら自身がわかっていないからだろうなとも思っていて、時々TLに流れてくる 、村上龍botの言葉を借りれば



(このbotが本当に何だか定期的に流れてくるんだけど、誰だよ流している奴は)

自分が何を欲しているのかわからないので、こじれにこじれているように見える。

金のないキモいおっさんっていうフレーズからわかることは、お金がないこと、キモいこと、若くない男性のことなんだけど、だいたい言及されるのは、彼女がいないとか結婚できないとかセックスができないとかそういうことなので、労働問題とかルッキズムの問題とか男性社会でのマウンティングの話とかそういうことよりも、対女性との関係性の問題がメインなのではないかと思われる。





これを見ると
キモくてカネの無いオッサンの「キモさ」なんて、例えば性交渉経験の有無とか結婚歴の有無とか恋愛経験の有無とか色々指標を使って概念的に精緻に考えられるでしょうし、この概念は勝手な俺かわいそうルサンチマンの産物とか言って片付けるのではなくそういうのが本来社会学者様の仕事でしょうが。

 
とあるように、やっぱりセックスとか結婚とか恋愛とかそういうものが指標になるようだ。
 男性性は確かに最後の砦かも知れないが負担ださ諦めなさいとメンズリブのように非モテを諭したとしても、結局世の中は男性性を十分に体現したモテもする男性達が男性性を存分に発揮して回っていくことには変わりないのであって、非モテにだけ仏教かストア派を奨めている感じになりますよね。

モテる男を尻目に指をくわえてみていることに苦痛を感じている。ここが大事なところで、「モテる男と自分を比べた時の苦しみ」と「自分が女から振り返ってもらえない苦しみ」とどちらが本質的な痛みなのか?というところが一緒くたになっているように思える。

「某広告代理店の今炎上中マンのようになりたい。」

という感じが見え隠れしているように感じるのですよ。これ前者の苦しみ。そうなれない自分が哀れで、そうさせない社会が憎い。そういう風に聞こえるんですよ。

後者の、自分を愛してくれる人が欲しいという痛みとまったく違うことがわかりますかね。


広告代理店炎上マンは女性を「性的な存在」としてしか見れない人なんだと思う。
女は「やれるか、やれないか」としてしか見ていない。
やれない女は価値がない。意味がない。
そういう世界。でもそういう世界は性別に関係なく「利用価値があるか、ないか」でしか相手を見れないし、それしかない世界だから、男もセクハラ、パワハラにあう。
で、それが「男らしい」とされてきた社会。
童貞を嘲るのもこの社会。

女をあてがうしか救われない男

という発言はこの↑社会の話。

女をあてがうと「何」が救われるのか?ってところに説明がないんだよね。
そこが一番大事なのに。
救われるって、何がどう救われるんだろう。
女を性的な存在としてしか見ていないからそんなことが言えるわけ。
人を利用価値で見るのなら、その人からも同じように自分の利用価値を見定められるだろう。
それで何が救われるのだろう。
女がいたら、何が救われるのか?
その女はどんな女で、何をしてくれる女なのか。
何を期待するのか。
そういうことを一つ一つ丁寧にほぐしていかないと多分、何も救われない。


で、この話題にピッタリな1曲を。











 

やはり落ちましたね。




心理研修センターから通知来ましたよ、やっと。
締め切りギリギリに出したのでやっぱり落ちました。
今年は受ける気があまりなかったし、年度末の研修とか地獄かと思っていたので、まぁ私としては落ちてよかったのかなあと思っています。

速達などで気合い入れて申し込んだ皆様は講習の席をε=\___○ノ゚ GET!!できたのでしょうか?

内容教えてくださいね!!





MBAが退院してきたよ!

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🔼退院してきたMBA

MBA ソイラテ水没から復活なう 水没MBAのその後


 いやー、退院してきました。元気になって!!
かなり快調です。

修理もかなりお安くやってもらえて助かりました!!

水没箇所の画像が修理屋さんから送られてきたのですが、赤丸で囲われてるとこいっぱいありすぎじゃね?とドキドキしてしまいましたが、それでも今はこのブログを書けるまで元気になって。・゚・(ノД`)・゚・。

日曜日に送り出して、水曜の朝一で帰ってきたので、速さも大満足です。

いやー、それにしても持ち歩ける端末がiPhoneだけっていうのは不便でした。
本当に気をつけないとね、仕事しながらのコーヒーは。

実は水没事故はこれ2回目で一回目はMBAと給食の牛乳を一緒に持っていて、牛乳パックが潰れて牛乳マリネにしたっていうことがありましたが、それはもうジャンクで売りました。
買ってくれてありがとう。

皆様のおかげでいろいろやれております。
というわけで、感謝のブログでした〜。

ちなみに修理は35000円くらいでしたよ! 




 

水没MBAのその後



またこの箱に入れて、修理に出しましたwwww


電源入ってTime Machineでバックアップ取ったところまでは良かったのですが、電力が供給されなくなり、起動できなくなったため、あえなく入院となりました。

おいくら万円かかるのかしら…
(;´д`)=3トホホ・・

うちには使ってなかったMacBook Proがあるのですが、それを使おうと思ったらログインパスワードがわからない!
Apple idでログインしようとすると、ネット接続ができないと言われて、iCloudに接続できない!
という有様で、さむーい自室のMac miniを使って、起動ディスクを作成するもなぜか認識しない!

なんなんですかね。一体。

とりあえず、Appleで
Apple Thunderbolt - ギガビットEthernetアダプタ



をポチったので明日届くと思います。
うぃふぃがダメならEthernetで頑張ってほしい。 
 

OSがYosemiteで、Yosemiteはうぃふぃの接続が悪かったみたいな記事が多いのでEl CapitanくらいにアップデートしたらiCloudに繋がるんじゃないかなと期待してるけど、起動ディスクが使えないとね。。・゚・(ノД`)・゚・。

MBA ソイラテ水没から復活なう


↑AppleからいらしたばかりのMBA さん。

【事の発端】

1.先週日曜、こたつの上にMBA とソイラテを無造作に放置しておいたら、ソイラテが入ったマグカップを親が倒す。

2.蓋が閉まってスリープ状態のMBA の蝶番側からソイラテの波が直撃。
慌てて表面を吹き始めるが、開けると排気口に向かってソイラテが駆け込むところを目撃して、さらに慌てる。

3.タオルでキーボードをゴシゴシ吹いたら電源が入ってしまって、さらにさらに慌てる。強制終了時にちらっと見えた「?」アイコンに震え上がる。

4.テッシュを挟んでキーボードを上にして蓋を閉めて放置。

5.充電ランプがつかないことに気づく。

6.充電もやばいと思い、コードを抜く。
7.月曜の朝に再度確認。充電できない。システムソフトウェアも見つからない。

8.ググる先生に頼み込んだから、しばらく乾燥が必要というのを見つける。最悪HDDだけでも取り出さないか、ググる先生に再度頼む。修理してくれるお店を検索。

9.水分除去を最優先と見て、よくロングブーツの湿気取りに新聞紙がよいという情報を思い出し、排気口に新聞を挟む。キーボードにも置いて、逆さにして放置。

10.今日水曜日、こぼした親が気にして放置してあったMBA を起動すると、ジャーーーーンという懐かしい音とともにアカウントアイコンが!!!!!

そして今バックアップ中です。
充電ランプはつかないけど、電力はコードから取り込めるようで、一応Time Machineちゃんがお仕事しています。
起動ディスクも作ってしまおう。

あとでSMCなど試して、充電の不調が取れるかどうかをやってみます。
とりあえず、中のデータは救出できそうでよかったです。

ロングブーツに新聞紙という知識、女子力の勝利です。
女子力\(^o^)/

性暴力と修復的司法を買ったよ


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えっと、一応末端ながらトラウマを専門()としているので、少なからず「犯罪」に関わるケースというのがあります。
そのほとんどが被害者側の支援です。
実際に刑事事件の被害者の方のカウンセリングをして警察にカウンセリングの経緯を伝えたり(もちろんクライアントからの依頼)、裁判に立つクライアントを支えたりということがありますし、
被害届を出さずにそのままカウンセリングを進めることもあります。
それはクライアント次第です。

で、修復的司法というのは前から気になっていて、こういうことをしている限り、全く関係ないことはなく、同じ地平の上に立っているのではないかと漠然と考えていました。その距離がどれくらいなのかは分からないですが、「被害者支援」というカテゴリーの中に入るものだと。

ただ正直言って、なんというか、そんな都合の良い結末ってあるかしら?とか、セラピストが被害者に「修復」を提案するっていうのはどうなんだろうとか。そんなことも思っていたわけです。

被害者支援をしている中で、被害者が持つ「私が悪い」という自責からどのように事件を捉え直して行くのか?にかなり時間を取られることが多く、支援者としてはそこが1つ大きな焦点です。私が悪い→私は悪くない→怒りまでの過程は回復をして行く中では非常に重要なものです。その怒りのプロセスは今のこの社会では決して簡単なものでもないです。被害者の怒りは、二次被害を誘発します。

そんなこんなを色々考えながら、それらの疑問、アプローチをを色々紹介、議論しているこの本を買ってみました。
著者の小松原さんからもTwitterでお返事いただいて、非常に楽しみにしていました。
今ちょっとずつ読んでいるところです。
読み終わったら是非またご紹介しようと思います。





小松原織香
成文堂
2017-11-12




 
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